勝負慣れと、補助輪としての努力神話
世の中は不公平だという当たり前のことが、社会に出てからも理解できない人が時々いて、理不尽だと怒ったりしている。不公平を覆い隠した仮初めの世界に長くいすぎて、受け止めきれない。そもそも私たちはスタート地点が大きくずれたレースをしている。
— 為末 大 (@daijapan) 2015, 5月 30
スポーツで理不尽慣れするのは、先輩から無理を言われてそれに慣れるということだけではなく、どんなに頑張っても才能がある後輩にさらっと負けることがあるということだ。努力は報われるとは限らず、勝つのは強い方だ。その当たり前のルールの中で自分には何ができるのかを考える。
— 為末 大 (@daijapan) 2015, 5月 30
強い方が勝ち、いくら努力しても結果が出ないこともあり、適当にやっている才能がある選手が勝つこともある。勝負慣れしてない人はそこで理不尽さに憤る。慣れている人は、それを分かった上で朝起きて淡々と今日やるべきことを遂行する。
— 為末 大 (@daijapan) 2015, 5月 30
少し前、「勝負なれしていない」人にやたら恨まれたことがあって、世の中にはそういう人がいるんだなあということを肌で実感した。
勝負事に限らず、壁にぶつかるくらいのところまで何か一つのことを追求する、という経験が必要なのかな。
しかしそもそも、一つのことを追求するためには、一旦「努力すれば報われる」という神話を受け入れる必要があるのかもしれない、とは思うけどどうなんだろう。
必要悪というか、補助輪としての努力神話。
あと日本の場合は努力神話の形成に関して、「勤勉革命」あたりが大きく影響していそうなので、その辺り速水融氏の著作をあたってみようかなと思っているところ。